築地容子の死去が判明しました。
亡くなったのはすでに7年近く経っていました。
なぜ公表が遅くなったのでしょう?
築地容子 死去判明
築地容子 死去判明のニュースは、次のように報道されています。
戦後の日本を歌声で彩り、第9回NHK紅白歌合戦(1958年)に出場するなど活躍した歌手の築地容子(つきじ・ようこ=本名・西原利枝)さんが、2013年12月15日に死去していたことが21日、分かった。82歳。晩年はレコード会社や事務所などに所属せず第一線から退いていた。22日発売の全曲集「日本の流行歌スターたち(27) 築地容子」(ビクター)に付属するライナーノーツで初めて公表された。
出典headlines.yahoo.co.jp
築地容子 死因
築地陽子は2013年12月5日にすでに死去されていました。
レコード会社が連絡をしたところ死去が判明しました。
82歳でした。
死因は公表されていません。
新しい情報が入り次第、お知らせします。
関係者によると、全曲集制作にあたり、担当者が日本歌手協会を通じて本人への連絡を試みて死去が判明したという。担当プロデューサーは「日本の歌謡界において輝かしい活躍をされた方。すばらしい歌声を後世に伝えていくと同時に、亡くなられたことも公表することで歌手人生の軌跡を残したい」と経緯を明かした。
築地容子 歌手動画
それでは築地陽子の歌を聴いてみましょう。
築地さんは1931年7月12日生まれ。東京都出身。高校卒業後に東京の劇場「ムーラン・ルージュ新宿」で芸能活動を開始。長身と美貌で人気となり1950年に姫路リエ子の芸名で映画「恋しかるらん」で女優デビュー。54年には覆面歌手の「金色仮面」として素性を明かさないまま「ジャニー・ギター」でデビューして大きな話題に。続けて「セレソ・ローサ」などがヒットした。その後、一般公募した芸名の築地容子として活動。シャンソンや邦楽曲、洋楽のカバーを歌うポップス歌手として昭和30年代に美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみらと人気を博した。
築地容子 晩年
築地陽子の晩年は何をやっていたのでしょうか?
晩年は兵庫県内で暮らし、店を経営しながら関西を中心に音楽活動をしていた。11年には大阪市内で東日本大震災チャリティー公演にゲスト出演し元気な歌声を披露していた。
築地容子 死去判明に世間の反応は?
◆紅白にまで出ていたのに6年半も…
周りで関わった人もそれなりにいたんだろうに、結構冷たい世界なんだなって思う。
ご冥福をお祈りいたします。
◆2010年の歌謡祭、観ていました。
声量もあり、高音が少し不安定でしたが、とても素敵な歌声でした。
YouTubeで2013年頃にショーで歌った動画がアップされていたので、ご健在なこととばかり思っていました。
紅白にも出場しているし、数年前に彼女の歌唱映像がテレビで放映されているので、供養もこめて再度注目が集まるといいですね。。。
◆7年も分からなかった事が凄い。きっと年齢も年齢なんで付き合ってた業界の人居なかったのかもね。
◆名前はお聞きした気もするが、かつてのスターも老いれば自然と忘れられる。
晩年は東北大震災のチャリティー活動もされていたのは偉いと思う。
ご冥福をお祈りします。
◆7年間誰も近況をきく連絡すらしなかった、てことだよね
◆7年間訃報が報じられなかった。
ということは世間的には完全にあの人は今以上に忘れられた存在だし、家族も忘れられてもいいと考えてたんやろうね。
◆もう七回忌すら過ぎてますね。
築地容子 死去判明 公表が遅れた理由は?
過去のスターですが、
レコード会社や事務所ぶ所属していなく、
歌手活動もされていなかったため、
業界関係者に死去の連絡がなかったのだと思われます。
ご冥福をお祈りします。
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