定岡正二 最後の1年がヤバい!トレード話でキレて引退?真相とは? | ErimakeeニュースWEB

定岡正二 最後の1年がヤバい!トレード話でキレて引退?真相とは?

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定岡正二の最後の1年が話題になっています。

定岡正二は若くして引退しましたが、

その理由とは?

最後の1年は活躍した?

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定岡正二 甲子園のアイドル

定岡正二と言えば甲子園で延長15回で213球を投げ抜く死闘を制し、
甘いマクスもあってアイドル選手としてドラフト1位で巨人に入団しました。

甲子園の定岡正二を見てみましょう。

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定岡正二 巨人のローテーションへ

しかしプロではなかなか目が出ず、
6年目で初めてプロ初勝利を記録しました。

しかし、ここから開花します。

第一次長嶋政権ラストイヤーの80年シーズンに9勝を挙げ(防御率2.54はリーグ3位)ローテに定着すると、
翌81年は阪神戦で初回先頭打者に二塁打を許しただけの準完全試合となる1安打完封勝利も達成し、初の二ケタ到達の11勝でチーム8年ぶりの日本一に貢献する。

実力が人気に追いついたと評された翌82年は15勝6敗、防御率3.29。10完投3完封とキャリアハイの成績を残した。

持ち球は直球、カーブ、決め球のスライダーというオーソドックスな右腕は広島戦に滅法強く、81年は11勝中6勝、82年は15勝中7勝を稼ぐカープキラーとして知られた

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定岡正二 最後の1年

しかし故障が定岡を襲います。

83年以降は腰痛や慢性の右肘痛を抱え、徐々に先発兼ロングリリーフの便利屋的な立ち位置へ。元甲子園のアイドルも20代後半を迎え、やがて現実の中で生きる術を見つけていく。そして、唐突に28歳のシーズンに「最後の1年」を迎えるわけだ。

猛虎打線の阪神が球団創設以来初の日本一に輝いた1985年(昭和60年)。王巨人は吉村禎章があのバースと最高出塁率のタイトルを争い、投手陣は20歳の斎藤雅樹が12勝、ルーキー宮本和知が38試合に登板と、ヤングジャイアンツの台頭もあり、チームは夏場まで優勝争いを繰り広げるも9月以降は急失速して3位に。

定岡はすべてリリーフで47試合に登板。鹿取義隆、角盈男、サンチェらとともにブルペンの一角を担い、74.1回を投げて4勝3敗2セーブ、防御率3.87。3年前は15勝を挙げている定岡にしては物足りない成績だが、まだ28歳だ。老け込む年ではない。

10月24日のシーズン最終戦の阪神戦では、8回にマウンドへ上がると一死一塁の場面で併殺打に打ち取りピンチを凌いでみせた。プロ11年目を無難に終えたわけだが、結果的にこれが定岡の現役最終登板となった。

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定岡正二 引退の理由はトレード?

1982年をピークに、

1985年は先発登板無しに終わります。

リリーフに回りますが、登板数はこの年にキャリアハイ。

しかしなぜこのキャリアハイの登板数の年、

28歳の若さで引退をしたのでしょうか?

 翌25日に「飯でも食おう」と球団関係者から呼び出され、「近鉄バファローズのエースになれ」とトレード通告を受ける(相手は有田修三捕手)。しかし、定岡はこれを拒否。11月2日には球団代表に巨人を辞めることを告げ、なんとそのまま28歳の若さで引退してしまう。この一連の騒動は当時大きなニュースとなり『週刊ベースボール』といった野球専門誌だけではなく、『週刊ポスト』や『週刊明星』でも定岡特集が組まれたほどだった。

 

 トレードを拒否しても巨人残留ができると思っていたが、その後の話し合いで自分が来季の戦力構想には入っていないことを告げられ、近鉄へ行くか辞めるかの選択を迫られたという。そこには説得を試みたが予想外に難航してしまった球団側の焦りも見てとれる。

 

  引退から2年後に発売された著書『OH!ジャイアンツ』(CBSソニー出版)によると、定岡は85年に右肘痛に悩まされ、野球を続けようか辞めようか悩んでいたという。そのタイミングでトレードを言い渡された。これも運命だ。「もう知らない球団に行ってイチからやりなおすだけの気力も、体力もなかった」と書き記している。

引退はトレードに出されるのがイヤだっただけではなく、

故障で悩んでいたこととタイミングがあったためでした。

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定岡正二 最後の1年に世間の反応は?

定岡のトレード拒否からの引退は有名だけど、その前に篠塚と大石のトレード話があったのは知らなかった、実現していたらどうなっていたんだろう?

 

生ダラで負け犬サダ へなちょこサダと弄られた人ってしか印象ないけど昔は甲子園のアイドルで凄い投手だと知った時は驚いた TBSで解説やったりと野球関係の仕事もそれなりにあった 最近じゃリアル野球盤にも出てた姿を見た時は安心した まだまだ頑張って欲しい

 

個人的にこの頃は
淡口が近鉄に行ったのが寂しかったな。
定岡はスピードはさほどでもないのだが
バネみたいな体幹で
投げ終わった後の軸足が真上を向いている
フォームが凄く格好良かった。
ドラ1でも中々芽が出ず途中忘れていたけど
江川、西本、定岡の三本柱は短かったが
良い活躍したものな。
記録より記憶に残る選手であったが
その後のテレビの活躍も嬉しいものだった。

 

当時は先発完投が当たり前だったから83年以降の評価は低いが、今なら評価が違ってきた投手。
6回3失点であれば十分に出来たと思う。

 

結局、定岡はタレントとして負け犬サダとして名をはせ、定岡の代わりに同じく巨人一筋だった淡口(+山岡勝)が近鉄に行ったわけだね。
とはいえ、淡口は近鉄でも活躍したし、有田も巨人で山倉の2番手捕手で活躍したからいいトレードではあったよね。

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定岡正二 最後の1年 おわりに

定岡正二の引退は驚きましたが、

ウラ話をいま聞くと、

引退した気持ちがよくわかります。

故障で気持ちが揺れていたところでのトレード話しだったのですね。

野球人生は色々ですね。

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