宮城まり子が死去されました。
「ねむの木学園」を設立した宮城さん。
私生活のパートナーだった吉行淳之介との関係は?
宮城まり子 死去
宮城まり子 死去のニュースは、次のように報道されています。
肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」を設立し、長年にわたり園長を務めた俳優の宮城まり子(みやぎ・まりこ、本名本目真理子〈ほんめ・まりこ〉)さんが21日、死去した。93歳だった。
出典headlines.yahoo.co.jp
宮城まり子 死因は?
宮城まり子の死因は悪性リンパ腫でした。
宮城まり子 ガード下の靴みがき
宮城まり子と言えば「ねむの木学園」のイメージがありますが、
歌手、女優でもあります。
まずは宮城まり子の曲を聴いてみましょう。
1927年、東京・蒲田生まれ。22歳で歌手デビューし、55年の「ガード下の靴みがき」が大ヒット。NHK紅白歌合戦に出場し、俳優としても舞台やテレビで活躍した。
宮城まり子 ねむの木学園
宮城まり子が福祉活動を始め、「ねむの木学園」を始めた経緯を見てみましょう。
ミュージカルの役作りで、脳性まひの子どもがいる施設を訪問したことをきっかけに、68年に私財を投じ肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を静岡県浜岡町(現・御前崎市)に開いた。絵画や音楽、工芸などを教育に採り入れ、国内外で子どもたちの作品展を開催。障害のある子どもたちが生まれ持つ豊かな感性を世に伝えた。
また養護学校など福祉施設も設立したほか、園児たちとの記録映画「ねむの木の詩」などを次々と発表し、大きな社会的反響を呼んだ。
97年に静岡県掛川市に施設を移して「ねむの木村」を開設。障害児の職業実習のための喫茶店や雑貨屋などをつくり、障害者の福祉に尽くした。
作家の故・吉行淳之介さんの長年のパートナーとしても知られた。
宮城まり子 吉行淳之介
作家の吉行淳之介とは愛人関係ですが、生涯の伴侶といえる関係でした。
吉行淳之介は若い頃、吉行文枝と結婚しています。
後に別居しましたが、女優の宮城まり子と内縁関係になります。
妻は終生離婚に応じずに、そのような関係となりましたが、吉行淳之介には他にも愛人がいました。
「90歳になったいま振り返ってみても、淳ちゃんと私はとてもいいコンビでした。ずっと結婚という形を望んでいましたけれども、かなわなければ、愛だけでいいと思い続けていました。淳ちゃんの子供、もちろん欲しかった。ただ……」
正妻や娘さん、吉行さんの母や妹たちへの遠慮もあった。
「できなかったのではなく、産まなかったのです」
ねむの木の子供たちは、吉行さんとの子供でもある。理事を引き受けた吉行さんは、子供たちの“おとうさん”なのだから。
「もし“淳ちゃんの妻”になっていたら、ねむの木学園は続けられなかったと思います。もし淳ちゃんの子供を産んでいたら、私たちのベタベタしない、兄妹みたいな、互いを思いやる関係は成り立たなかったでしょう」
引用https://jisin.jp/domestic/1623305/
宮城まり子 死去に世間の反応は?
◆真に人を愛して生きた人。日本のマザーテレサ。
お疲れ様でした。ゆっくり休んで下さい。ねむの木学園が宮城さんの意志を受け継ぎ守って行くことを心より願っております。
◆長い間、大変なご苦労がおありだった事でしょう。本当にお疲れ様でした。心よりご冥福をお祈り致します。
◆ご冥福、心よりお祈り申し上げます。
映画「ガード下の靴磨き」のあの姿が未だに
瞼に浮かびます。そして「俺ら貧しい靴磨き・・・♪」の歌がいつまでも耳に残ります。
貴方が尽くした善意は永遠に、決して忘れられ
ずに残って行くでしょう。昭和の宝です。
合掌。
◆合掌。かつて合歓の森ではミッドランドからチェッカーズデビューを共にする友人の音楽フェスティバル駆けつけた若き時代の有志です。時代ですね。
◆日本初の劇場長編アニメーション『白蛇伝』を森繫久彌さんと共に全ての役柄を演じられていました。去年のNHK朝ドラ「なつぞら」で鈴木杏樹氏が宮城さんを演じていたのは偶然とはいえ驚きでした。ご冥福を心よりお祈りします。
◆とても可愛く優しい方でした。昭和時代『KBS京都24時間テレソン』で初めてお目にかかり、『リハビリ』や『ボランティア』という言葉と意味を高校生の時に教わりました。
障害者福祉に人生を捧げられた愛を尊敬します
◆戦後の貧しい暮らしの中、焼け跡で育った人たちにとって忘れられない人。「ガード下の靴磨き」は今も耳に残っている。食糧不足で貧しかったけれど皆、生き生きしていたな。「ねむの木学園」をつくり園児に寄り添う姿も目に浮かびます。
◆子どもの頃、まんが世界昔話を観てました。
ご冥福をお祈りします。
それはそうと、記事にまんが世界昔話に触れてない事に違和感があります。
宮城まり子 死去 おわりに
ご冥福をお祈りします。
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